まめはな雑記

台湾迷の日本人による、旅行記、読書録、その他メモ。台湾以外のネタも少々含みます。

蓬莱米の父と母

日本でも台湾でも、主食であるお米は生活に欠かせない穀物です。

いまでこそ、当たり前のように米を食べている私たちですが、昔からこのようなお米があったわけではありませんでした。

美味しいお米が食べられるのは先人の努力あってこそ…ということで、台湾のお米と、その品種改良に携わった日本人について勉強したことをまとめたいと思います。

実は、お米の品種改良については数年前に一度(たしかアジアの産業発展か何かを勉強した時に)触れたテーマだったんですが、先日ある機会に思い出そうとしたら完全に忘れていたので、もう一度勉強しなおそう、というのが本記事を書いた経緯でございます。

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台南の夜市で牛肉湯(白飯つき)を買って食べたときの写真。

 

台湾の稲作はいつから始まったのか

日本の場合は縄文時代後期に稲作が伝来し、弥生時代に急速に日本に普及したといわれています(全土じゃなくて、北海道などを除く一部らしい)。縄文時代の終わりというのは、諸説ありますが約3000年ほど前のことで、この時代の遺跡に稲作の形跡があったようです。

台湾も、今から約3000~5000年前ごろの遺跡に稲作の形跡がある(1)ようで、日本と同じくらいか、それより前から米は存在していたようです。ちなみに、そのお米の起源はどこなのかというと、これについては諸説あるらしく、①中国東南地区から伝わった、②台湾にあった野生の米が選抜・栽培された、③ジャワ島から伝わった、などがあるようです。ただ、これら先史時代の米の種子というのは、野生に見られるものを除くとすでに消失してしまったそうです。

台湾の米文化が始まったのは、明朝・清朝の時代に広東省からやっていた移民がインディカ米を台湾に伝えたことが契機だそうです。そして、このインディカ枚は「在来米(在來稻)」と呼ばれるようになりました。

ちなみに、台湾留学中はお米といえばインディカ米よりもうるち米(のような粘り気のあるお米)を食べた記憶が多いので、台湾の在来米がインディカ米だったというのは少々意外でした

 

日本統治時代に日本の稲が台湾に導入された

前述のとおり、台湾にもともとあった米はインディカ米でしたが、1895年(明治28年)から日本による統治が始まったあと、日本人によって日本の稲(ジャポニカ米)が台湾に導入されました。

当時の日本は急速に工業化を進めていたこともあり、食料供給が重要な問題だったため、台湾を食料の供給源と位置付けていた(=「工業日本、農業臺灣」)ようですが、日露戦争以降食糧不足が深刻化したことや、日本人が好む味覚の米を生産したいという思惑があった(2)ことから、日本の稲を台湾に導入し、稲作についての研究が始まったそうです(そういえば、米騒動が起こったのも1918年で、時代としては近いですね)。

こうして、1900年代以降日本の稲が台湾に導入され、総督府農事試験所も創設されましたが、日本と台湾間の日照時間の違いや稲の病気などにより、日本の稲がそのまま台湾で育つということは困難を極めました。

 

在来米とジャポニカ米の交配で誕生した蓬莱米

上述のような困難に阻まれつつも、在来米とジャポニカ米の交配に挑んだのが、磯永吉教授でした。磯教授は札幌の東北帝国大学を卒業後、台湾に渡り、先述の総督府農事試験所や中央研究所の勤務を経て台北帝国大学の教授に就任しました。台湾の在来米の調査を行ったり(3)、膨大な数の交配実験を行ったりしたそうです。1928年には台北帝国大学で「臺灣稲の育種学的研究」で博士を取得しました。

また、磯教授とともに米の開発に貢献したのが、末永仁(めぐむ)技師です。末永技師は、稲の生長周期を早めることに成功し、生産量増大に貢献しました。磯教授と末永技師が育成した品種は214種(4)にものぼるそう…。

この、在来米とジャポニカ米を掛け合わせる品種改良を行った米のことを、蓬莱米といいます。ブランド名ではなく、在来米と対をなす区分って感じみたいですね。蓬莱米は、害虫に強く、二期作にも適していました。また、蓬莱米の中でも1929年に誕生した臺中65號(台中65号)は、1935年に米の品種改良コンテストで第1位を獲得した有名な品種です。

 

蓬莱米の父と母

蓬莱米の開発により、台湾の米の品質と生産量は飛躍的に向上しました。例えば、台湾の対日輸出量は、1922年の71万石から1930年代には300~500万石へと急増していました(5)。この増加を牽引していたのは、蓬莱米でした。

こうした功績から、台湾では磯教授を「蓬莱米の父」、末永技師を「蓬莱米の母」と呼んでいます。ちなみに、お二人の胸像は台湾大学内に設置をされています(これ、留学中に見に行くべきだったと今でも後悔している事案)。

 

参考文献

1)國立臺灣大學 農藝學系暨研究所、磯永吉小屋、

http://iso-house.agron.ntu.edu.tw/rice.html、2021年2月13日閲覧

2)外交部、Taiwan Today、 改良重ね“おいしさ”増す「台湾米」(上)、

https://jp.taiwantoday.tw/news.php?unit=189&post=74617、2021年2月13日閲覧

3)農林水産・食品産業技術振興協会、台湾政府から毎年感謝米1,200キロ 「蓬莱米」の父・磯永吉、

https://www.jataff.or.jp/senjin2/22.html#:~:text=%E8%93%AC%E8%8E%B1%E7%B1%B3%E3%81%A8%E3%81%AF%E3%80%81%E8%93%AC%E8%8E%B1,%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E7%B1%B3%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B%E3%80%82、2021年2月13日閲覧

4)『台湾見聞録』、2019年、三栄書房

5)谷ヶ白秀吉「戦間期における台湾米移出過程と取引主体」『歴史と経済』 52(4), 1-15, 2010 政治経済学・経済史学会

 

その他

本筋とあまり関係ないんですが、この分野のことを調べていると「●●の父」「●●の●●」という呼び名がたくさん登場してきます。あとできちんと調べてまとめられればなと思うんですが、備忘録も兼ねて箇条書きにすると以下のような方々が挙げられます。

  • 台湾近代化の父:後藤新平(超有名。「ヒラメの目をタイの目にすることはできない」に喩えた「生物学の原則」に則り統治をおこなった。)
  • 台湾糖業の父:新渡戸稲造(製糖産業の品種改良、耕作・加工法の改善を指導した。)
  • 都市の医師:浜野彌四郎(東京よりもはやく台湾に上下水道システムを完成させた。水の供給だけでなく、水質にも留意し、衛生環境の改善も実現。)
  • 義愛公:森川清治郎嘉義県内の派出所に勤務していた警察官。漁業税に苦しむ村人を救おうと減税を嘆願するも訓戒処分を受け、のちに自殺してしまう。死後、村で伝染病が流行った際、村長の夢枕に森川巡査が現れお告げをした。それを守った村は伝染病を免れた。)
  • 飛虎将軍:杉浦茂(飛行兵として出撃した際に乗り込んだ飛行機が被弾。眼下に集落があったことから、民間人に被害が出ないよう集落を避けて墜落、自身は脱出が遅れ戦死してしまった。)

 

ほかにも、調べればいろいろな人、出来事、歴史が見えてくるので、また勉強してまとめたいと思います。

ここまで読んでくださりありがとうございました。再見!